Running night 00M 18S

先の週末金沢に行ってきました。
21世紀美術館「愛についての100物語」を見に。
実はこの展覧会を見に行くのは、今回で2度目。
一回目に見たのは確か6月だったかな?時間感覚が、、、
その時ぼくは、この展覧会に対して結構批判的な感想で
「愛」と言う言葉を使いながら、展示内容に「愛」
について核心をつくもの、或は「愛」を解体するものが、
「愛」のリアリティーが少ない。
これでは「愛」は客寄せパンダではないか。
さりとて作品は一流の作家ぞろいクオリティーはけして低くない。
しかし「愛」を命題とした作品と判断するべきかどうか?
別のベクトルから見るのが本来の作品の姿ではないか?
これは、キュレーションのミスなのでは?
しかし、キューレターもまたプロフェショナル.、展覧会は成功を納めるであろう。

そして、僕には「愛と美術とは?」
もしくは「美術で愛を表現する」という疑問が残された。
この問いは結構、尾をひいていて、気になっていて。

例えば他の表現分野、小説や映画は実に雄弁に愛を語っている。
僕の大好きな小説家ミラン・クンデラなんかあるインタビューの中で
「あなたの小説を読むためにチェコ歴史を知る必要がありますか?」
という問いに、「私の書いているのは純粋なラブストーリーです。」
深いお言葉、愛の物語こそが歴史であり中心的で全ての根源、、、ありがたやー

そして、二度目の今回はたまたま、古本屋で100円で見つけた「スプートニックの恋人」村上春樹
を読みながら金沢に向かう高速バスの中で、昔読んだ村上春樹の本の書評を思いだした(出元不明、記憶の嘘かも)。
村上春樹が現れるまで、小説は向かい会う形での恋人しか描いてこなかった、
しかし、彼の小説の中では恋人は見つめ合わず共に同じ方向を見つめている、
この愛の形、或は共感こそが世代の感覚をつかんだ衝撃だった。
そして、この愛は必然的にメランコリックを抱えてしまうのである。云々」
みたいな事を読んだ様な記憶がよみがえった。
確かに、クラブ、レイブイベント等のカルチャーが盛り上がり始めた、この時代の人々にとって共感、
共有が愛と非常に近いものに成る感覚や、メランコリックは、クラブカルチャーの中後半を見てきた
僕には理解しやすい感覚だった。

愛は変わったのかもそのくらいの時期に、、、

そんな事を考えながら見た二度目の21世紀美術館「愛についての100物語」は感慨深いものだった、
「美術にとっての愛は、未だに向かい会った二人」これが僕の感想で、
美術にとって向かい会い見つめ合う事は非常に重要な意味を持っていて、
或は美術と言う形式は向かい会っている事で成立していて、
上記した様な互いに同じ方向を向いてと言う感覚を示すのは難しいのか?
それを超えてもっと現代の愛とは?それは芸術が表現出来るの?
等と、考えは未だ解決をミヅ。

追記
コレクションには入っていない作品ですが「earliest human relatives」杉本博司
実物を見てみたいなー。
追記2
「スプートニックの恋人」には金沢でのラブも乗ってるぞ!!